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2006年11月 7日 (火)

ウチ目均考(19) ここはどこ,あたしはだあれ?

日本経済新聞第43399号(2006年11月7日火曜日)第17面(投資・財務2)コラム「一目均衡」=「主役は家計」の覚悟はあるか=

苦虫こと末村篤特別編集委員による「一目均衡」は,先週の猫撫で声こと前田昌孝編集委煽り厨房対する反論支援する内容で,これもまた読み応えのあるものだった。苦虫の論点は,ズバリ「個人(投資家)が安定株主として定着するか」が(バブル崩壊後の)「持ち合い崩壊後の株式市場の構造変化の行方」の鍵となるというもの。これを本質論として理解せずに,またぞろ「デイ・トレーダー攻撃が始まった」などと偏狭に受け取ってはいけない。くれぐれも警告しておく。苦虫の今回の指摘は全く正しいのであるから。

☆ 株式市場を資本市場として捉えた時に,どのような光景が見えるか?この視点に立つと持ち合いは,ある意味財閥(コンツェルン)や企業合同(トラスト)よりも性悪だった。ことに持ち合いの中心にいた金融機関がモラルハザードを起こした時に,それは財テクを出発点とする相互バブルとなり,数多の無駄な資本調達(体の良い市場からの資金かっぱらい)が発生した。当然,そこで調達した資金に合理的なリターンは期待できないから,持ち合った大量の株式と共に互いが資本的に没落していくという「抱き合い心中状態」に陥ったのが1997年秋と2003年春である。

☆ さてその後,資本市場はどうなったのかと言えば,苦虫はこう書いている。

> 金融機関と事業会社が主役の座を降りた株式市場は,短期売買の外国人投資家と個人投資家が売買シェアを二分し,保有シェアは外国人の存在感が飛躍的に高まった。

☆ その名残りは,今も「寄り前の外資系証券会社売買動向(集計)」なる風物詩に詳しい。

> 外国人が存在感を高めたのはリスクを取った結果だが,ヘッジファンドなどの投機を助長する異常な金融環境も無視できない。ビッグバンがもたらした規律なき自由化と取引コストの低下が,企業による市場の乱用と個人投資家の投機を誘発した。

☆ いつもの文脈だが,賛否双方がある。確かに異常な金融状況に追い込まれたのは事実である。どこかのクルーグマンとかいう頭の良い学者が脳内ででっち上げた「環境」を実際に「市場テスト」させられたのが,速見日銀だった。しかもその背景には,みっともない接待政治(といっても対象は大蔵省と日銀だった)があったのだから,誰を責めたらいいのか,正直分からない。しかしネットバブルに個人投資家が邯鄲の夢を見たことを苦虫が責めるのであるならば,そこまで護送船団を維持させたのはあんた達メディアの監視機能が記者クラブ制度で骨抜きになっているのも大きな要因ではないかと反論したい。

☆ さはさりとて,自由化に規律もなければ保つべき矜恃もなかったことは指摘の通りである。いつの間にか若者が金持ちになり,周囲で見ていても醜悪なほど野望を膨らませた挙げ句に「パン!」と弾けるさまは,10年も経たない昔に浜田省吾が歌った情景(=銀行と土地ブローカーに未来を売り渡す)にそっくりだった。それは苦虫が言うように自由な競争の必要条件であったはずの規律が喪失していたからである。松尾前検事総長が言った如く事後的救済の究極の手段が検察法務であるとすれば,確かに国策捜査の謗りは免れないものの,ここまで事態を放置した者達の不作為の責任を,苦虫は「誰に」求めるのだろうか?そういう感想とは関係なくここで論旨は進んでいく。

> グローバル化の時勢とはいえ,日本以外で外国人株主の保有比率が25%を超える主要国は目ぼしい産業がない英国(約30%)ぐらい。米国は約10%で,ドイツも20%以下だ。一方,日本の個人金融資産に占める現預金比率は50%を超え,米国の13%,英国の26%,ドイツの35%に比べ突出している。

> 国内に潤沢な資金を抱えていながら,上場企業の株価と経営の支配権を外国人に握られて良いのかという疑問はあって当然だろう。ミスマッチを解消するには,法人に代わって個人が株式を保有するための条件整備が不可欠になる。

☆ 総論賛成だ。ただ消費財を生産する食品業(例えばカゴメ)のように,広く自社製品及び会社を応援する個人株主を募り,長期保有を促すような仕組みを企業戦術として意識できる会社は限られる。世の中には「時代の寵児」のような業種や企業があるが,そのような企業でもステークホルダーとしての株主を選ぶ権利もなければ,いつまでも株主でいて貰う権利もない。法人に代わって個人が株式を保有するという時,それは一企業の戦術としての個人株主作りから資本市場全体に個人の資金を広く薄く入れていくという戦略までの広い意味を包含している。苦虫は当然,後者について語るわけだが,それは「株価の支配権と経営の支配権を外国人に握られて良いのか」という問題意識から発するのであれば,ちょっと違うような気がしなくもない。

> 法人は借金の金利が所得から控除され,株式の投資損益は総合課税ですべての所得と通算される。政策保有の法人株主は取引で得られる利益を配当に上乗せして投資採算をはじいていた。翻って,個人株主は税引き後の所得から投資資金を工面し,投資損益の通算範囲も狭く,株式保有で得る利益は配当に限られる。

> リスクの吸収力とリターンの計算で法人と個人の格差を埋めなければ,移行がスムーズに進まなくて当然だ。国民に長期保有を望むのならば,税率の優遇もさることながら,損益通算の範囲の拡大と配当二重課税の撤廃が課題となる。

☆ 煽り厨房菅直人は,この部分を煎じて飲めばいい。苦虫が言うように日本の個人投資家は二重三重に足蹴にされ,踏みつけられ,その挙げ句にほんの一部の大成功者を引き合いに「弱者救済・格差是正」も人柱にさせられるのである。誰がこんな国の資本市場に投資するだろうか?それだけではない。前回も書いたように,今や投資信託や年金資金によって国民(その八割が非富裕層であり,その一割は恐らく貧困層である)の資金が資本市場に投じられていることを前提にすれば,そこから不適合者を排除しながらも,市場そのものを育成することによって,国富を増大させることが,国家の老齢化への基本的な対策であることはどんな不勉強な政治家でも理解できるだろう。

☆ 格差是正と言いながら資本市場を潰してしまえば,もとより資本主義は立ちゆかなくなる。まして日本のような「疑似社会主義」が国家の年齢構成や国際環境の変化の中で行き詰まっているのが明白な状況の中で,誰が好きこのんで角を矯めて牛を殺すような真似をするというのだろう?この後引用する苦虫の論説はそうした日本的社会主義の終焉の覚悟を問うものでもある。

> 「貯蓄から投資」の実現には覚悟が要る。政府は市場の整備に加え,税制など制度全般を見直し,日銀は金融政策の正常化に務める。企業は労働と資本の適切な分配で持続可能な成長を図り,金融機関は顧客本位の投資運用業に変わるか,新しい担い手と交代するかだ。民営化後の郵便局の生きる道もそこにある。

☆ ここでの論点をまとめる。(1)政府=市場の整備には当然,厳しいルールの厳守とそれによって担保された自由な市場の創出がある。税制については先に書いた。(2)日銀=円キャリートレードの根を絶つこと。国家の潜在的成長率を自然と達成できる軌道まで金利水準を緩やかに上昇させる。ただし,三重野日銀の失政に学び,市場との対話,メッセージ(軌道修正も含めて)の明確化により金利の番人という裃(かみしも)をサッサと脱ぐこと。(3)企業=目先の株主対策ではなく,CSRを基本とする自らのあり方を明確にして世の中に問う姿勢を保つ。それが出来ない会社ごっこ企業は一斉退場して貰う。(4)金融=間接から直接への趨勢の中で米国流金儲けと早期リタイアではない資本市場の担い手としての矜恃を保つ行動を取るか,その能力のあるものにその座を明け渡すこと。

> 企業丸抱えで政府に頼ることに慣らされてきた日本の中産階級は,成熟した経済と社会を担う中産階級への脱皮を迫られている。

☆ 『チューサン階級の冒険』を嵐山光三郎が書いてもう四半世紀になるが(爆),中産階級と言っても言論を担う者の責任は更に重い。記者クラブ制度の弊害が目立つ今,真に資本市場に必要な言論のあり方が何なのか,あたしは苦虫に問いたいと思う。チューサン階級だけが,愛の世代の前の一瞬の嵐に遭わなければならない道理はないからだ。

> 投信を含む個人の健全な株式投資が根付くかどうかは,金融機関にお任せだった個人が経済主体として自立できるかどうかの試金石になる。株式市場は日本が今,法人中心の企業社会から家計中心の市民社会へ転換するかどうかの分水嶺(ぶんすいれい)にあることを示しているといえる。

☆ 全く同感である。だからこそ,再度言いたいのだが,この大事な時期に目先の人気取りや目先の税金取りの言うがままになって,お馴染みの「なし崩し」の中で個人投資家が踏みつけにされないよう,言論人たる苦虫は,決死の覚悟で先頭に立って旗を振るべきではないのか。ドラクロアの絵のように。あなたにその覚悟があるのなら,あたしは惜しみなく応援する。でも無いのなら,今まで通りだ。

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