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2006年10月29日 (日)

いったい現実を把握している者はいるのだろうか?

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アーティスト:シカゴ
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☆ しかしシカゴというバンドがある意味アメリカを体現している部分があることは,否定しがたい現実であると思う。このブログは音楽のブログではなく,同じタイトルで音楽のブログにも書くのだが全く内容が違うことになる。ここでのシカゴは本題つまりJ-SOXなどという気取った「邦題」のついた法律を巡るドタバタ騒ぎに対するある人の意見を読んだ感想を導き出すための「記号」に過ぎない。ちなみに,この素晴しい邦題がついた問題意識高き曲の正式な題名は "Does Anybody Really Know What Time It Is?" である。

☆ さて本題。先日アメーバブログのinakenさんの「Finance fever」で財務報告に係る内部統制の評価・監査に係る議論についてという記事を見た。そこで紹介されていた,J-SOX対応をめぐる動向と問題点の検討という元記事についての感想。これは新日本監査法人代表社員の中島 康晴氏が書いている「会計監査徒然」というウエブログの10月18日付の記事だ。

☆ J-SOXという現象について感想はあって,別のところで皮肉まじりに書いたことがある。あたしの務めている会社は有報(有価証券報告書)提出会社ではないが,親会社にそういう会社があるので,少なからぬ迷惑を蒙ることになる。迷惑だと思う理由を,中島氏のウエブログを引用しながら説明したい。

> 金融商品取引法の成立によって、2008年4月1日以降に開始する事業年度から、内部統制報告書およびその監査報告書の提出が義務化されます。現在、実施基準が検討されているところであるようですが、米国での大失態(米国ではすでに404は制度として崩壊が始まっている)を受けて日本版はどのような形にするというのでしょうか。

☆ あたしも同感。だいたい2006(平成18)年度も上半期どころか7ヶ月目が終わろうとしているのに,「現在、実施基準が検討されているところであるようですが」とはどういうことだろう?ちなみに先月半ばに出掛けた学会の如き場でも「未だに実施基準が明確になっていない」という情けない状況だったが,企業会計や法務の実務家にとってはまさに時限爆弾的な迷惑な状況であることを関係者のお偉方は認識しているのだろうか("Does Anybody Really Know What Time It Is")?

> また、IT企業やマスコミの「船に乗り遅れていいのか」的なあおりの中で内部統制議論は大混乱の様相を呈しています。議論錯綜、試行錯誤といった状況の中、企業側は冷静にこの日本版404という制度について考えてみる必要があります。私の見る限り、この制度には多くの疑問・矛盾と思われる点があるので、本稿では、この点を整理してみたいと思います。ただし、全て私見であることをお断りします。

☆ アメーバのブログに書いたが,先週の日経夕刊「ウォール街ラウンドアップ」でいかにも「米国企業改革法」が不正会計の撲滅に役立っているかのようなニュアンスで記事が書かれていて,全く納得がいかなかった。中島氏の指摘でもこの後出てくるのだが,詐欺師の犯罪のツケをどうして何の関係もないサラリーマンが蒙らなければならないのか。考えるだけでも腹の底から怒りが湧いてくる。いじめ自殺問題や飲酒運転禍の報道でもそうだが,物事の本質を追及するのではなく,皮相的責任問題ヒステリックに追いかける全マスコミの姿勢は,一億総芸能マスコミ化(禍福の「」かもしれん)とも相俟って,国家の自主的な白痴化ではないかと思わざるを得ない。が,ここからヒートアップしていてはウエブログの紹介にならない(^^;)。

1.不正開示の実態との矛盾

> まず、米国におけるSOX法導入の発端となった会計不正事件として必ず挙げられるのがエンロン事件とワールド・コム事件です。この二つの粉飾決算事件により金融市場あるいはディスクローズ制度への信頼性が大きく損なわれ、その信頼性回復のための施策がSOX法という形で制度化され、その中の404条で内部統制の評価制度と監査制度が具体的に出現しました。

> ここで、まず大きなボタンの掛け違いを起こしています。エンロンもワールド・コムも経営者の不正です。不正開示の原因は内部統制の不備ではありません。経営トップ自身の意識の問題なのです。内部統制の構築が会計不正を防止する手段であるかのように、いつのまにか問題点がすり替わってしまっています。

> 経営者不正はガバナンスの問題であり、決して内部統制の問題ではありません。内部統制とは経営者が企業内に敷く制度・仕組みですから、経営者自身の不正にはまったく無力です。経営者の不正問題を内部統制の問題にすり替えてしまったところが、今回の大混乱を招いている根本原因だと思います。

> 日本の場合もまったく同様の誤解からスタートしています。日本版404のきっかけになった不正事件は、西武鉄道の不実開示とカネボウの粉飾であるといわれていますが、これらももちろん経営トップの不正です。内部統制とは関係ないところで不正は行われているのです。ライブドアにしても然り。そもそも、内部統制不備により(つまり、内部的に経営者が知りえないまま)開示の不正が生じ、しかもそれが投資家の判断を誤らす程に巨額であった例はほとんど記憶にありません。このボタンの掛け違いにより、404というとてつもなく無駄の多い経済制度を導入することになり、ひいては将来の米国経済・日本経済に大きな禍根を残すことになる気がしてなりません。

☆ 皮肉な言い方をすれば,個人情報保護法にも共通するのだが,トップが犯罪を主導するのであれば,いかなる内部統制をもってしてもそれを完全に避けることは不可能である。そういう資質の者に経営を任せてはいけないのであって,そもそも論で問題の本質が違うだろうと中島先生は言いたいのではないだろうか。あたしも全く同感だ。先ほどのマスコミの報道姿勢と同じことで,こういうのをモラル・ハザードと言うのである。

☆ あたしはこういう規制のあり方を見ていると禁酒法を思わずにはいられない。法の目的,あるべき社会への清廉な姿は望ましいかもしれないが,実際の規範として強制力を持たせたことで何が起こったか?何のことはないギャングを太らせただけだった。酒のような比較的簡単に醸造(蒸留)できる品物の場合,そういう形で規制することより依存症からの離脱という医療的施策のほうがよほど効果があることは,カポネとアンタッチャブル達の戦いをテレビ映画で見なくとも解りそうなものだ。

2.会社法の「内部統制」との混乱・誤解

> 今回の内部統制議論を混乱させている要因の一つに会社法があります。偶然にも時を同じくして会社法が成立し、その中で内部統制の構築を規定しているからです。しかし、会社法で言う内部統制は「業務の適正を確保するための体制」で、取締役の善管注意義務を明示しているにすぎません。また、404が対象としているのは開示に係る内部統制ですが、会社法は経営に係る社内の仕組み・制度を全て対象とする広範なものです。
> 内部統制という言葉は、そもそも「会社のある目標を成就するために敷く社内における全社的な手段」を総称する言葉であって抽象的なものです。会社法で言うような、「会社経営上のありとあらゆる会社の仕組み」を言っているのか、日本版404でいう「財務数字の開示の適正性を確保するための仕組み」を言っているのかを区別しないまま議論して混乱している場面に出くわすことも少なくありません。
> しかも、会社法では、それらの構築を規制して評価させるという制度ではなくて、それらの構築まで含めて経営者責任として問いますよといっているにすぎません。つまり、会社に不祥事が生じた場合、経営者が「知らなかった」とか「報告を受けていなかった」などという言い訳は通用しませんよ、経営者の内部統制構築責任が問われますよということです。では、どの程度まで内部統制を構築すればいいのでしょうか。しかし、その答えはわかりません。その構築のレベルの判断までも含めて経営者責任なのです。

☆ これについては,法務省の会社法チーム(相澤=葉玉組)の見解を見るまでもない。もともと会社法は,平成13年辺りから一連の商法近代化作業の集大成として,規制規範としての法律を制度のガイドラインという性格のものに大きく組みかえる作業であった。その過程で,会社のあり方を巡る現代的な問題意識を取り込みながらアップ・トゥ・デイトなものにしようという極めて実務的モダンなアプローチを採っていた。それに対する法曹からの批判は論を置くとして,実務的にはかなり大幅なフリーハンドを与える結果になり,それが規制大好き定型大好きな一部現場の混乱を招いているのは間違いない(´∀`)。

☆ 中島先生が最後のパラグラフで書いているように,あくまでも経営者の懈怠責任(=経営者としてやるべき仕事を怠けたことによって会社≒株主に与えた経済的損失への責任)を問われますよというのが,法務省の会社法チーム的な「内部統制に関する議論」である。逆に言えば,そのレベルを決めることこそが経営者としての仕事でしょうと彼等は言うのである。まあ当たり前の話といえばそれまでだ。

3.内部統制を経営改革の旗印にする混乱

> 内部統制という言葉をひと括りにして議論すると、業務改善といった無駄の撲滅や法令順守、リスク管理、さらには着服等の従業員不正の撲滅など、あるいはCSRといった広大なる目標にまで言及してしまい、ゴールが見えなくなってしまいます。しかも、これらはいずれも、日本版404で言っている内部統制構築とはまったく異なるものです。あくまでも、日本版404は、投資家への開示に係る決算数字の信頼性担保のために、その数字の作成過程の構築を義務付けているにすぎないわけです。
> 「日本版404を機に経営改革を」とうたっているような会社がありますが、これはいかがなものでしょうか。本当に投資情報の適正表示のための体制構築が会社の改革すべき課題なのでしょうか。これが本当だとしたら、公開企業として、ディスクローズという最低限の義務すらも果たせない危険な状況にあるといわざるを得ません。これは経営改革などという代物ではなくて、会社の最低限の義務です。
> 本当の課題は、不祥事撲滅やコンプライアンス、あるいは業務の非効率さの改善にあるのではないでしょうか。内部統制という言葉を使えば、それらの会社の課題が浮き出てきて解決できるほど甘くはありません。会社の課題は何なのか、何を改革するのかを明確に定めて、その具体的対策を議論すべきです。内部統制という「おばけ」のような言葉に惑わされてはいけません。

☆ つまり「会社法」に言う「内部統制」と金融商品取引法にいう「財務数字の開示の適正性を確保するための仕組み」とは峻別されるべきであり,後者における基準を遍(あまね)く前者を通じて全社に適用させるのか否かはまさに「経営者の経営者としての判断」の問題ですよということだ。その評価は会社法によって行われるべきではなく,例えばCSRとか企業コンプライアンスといった企業の社会的な役割の中で精度を上げていくべき問題ではないのかと思う。価値ではなく形から入ろうとするから,実務の現場に無用な混乱と軋轢を生じさせるのだ。それは経営者の経営上の問題といわずにいったい誰が,会社の中で責任を取るのであろうか("Does Anybody Really Know Whose Resposibility It Is")?

4.これを機に企業価値を拡大できるという誤解

「日本版404で企業価値向上」をうたう会社があるが、これも何か変です。投資情報の適正性確保のための体制整備はもちろん必要なことであり、それが完璧になればマーケットからの信頼が高まり、投資家は安心して投資の検討ができるというものですが、決して企業価値が上がっているわけではありません。企業価値とはもっと経済原理に基づく冷淡なもので、数字それ自体である。儲からない会社が、いくら開示や会計を整備したところで企業価値は上がりません。会計とか開示というものは数字の信頼性を担保しているにすぎないのであって、数字の裏にある実態には言及していません。経営実態を改革しない限り企業価値は上がらないというのは当たり前の話です。

5.会計を知らずしてJ-SOXを語る不思議

> 日本版404は会計問題です。投資情報として開示される数字の信頼性担保の仕組みを構築する制度ではあるが、その投資情報は「会計」というツールを使って会社の商売の実態を数字に落とし込んでいるのです。つまり、会計というツールが会社の「実像」を「写像」に変換しているのです。その変換の仕組み・体制が日本版404でいう内部統制です。
> 会計には多くのルールがあります。一つの仕訳をとってみても、それを起票するタイミング、計上する金額、それよりも何よりも、どういう勘定科目で処理すべきなのか、そのような会計の処理手続きが社内で正しい会計判断の基に適正に処理されているかということが問われているのです。従って、会計の基本であるところの、複式簿記の原理、B/SやP/Lの構造、資産や負債の概念、さらには税効果会計やキャッシュ・フロー計算書の原理、それらのものを知らずして404を語ることは絶対にできません。会計を知らずして404に入り込むと、入力ミスと集計ミスと承認漏れを洗い出すだけのチマチマした監視体制の構築に陥ってしまいます。つまり、「会計を知らずして404を語ることなかれ」です。

☆ この2点には何の異論もない。会社法実務の立場から考えれば,会計監査人が監査役(設置会社の場合。委員会設置会社なら監査委員会)とそれぞれの立場から(主として大会社や有報提出会社である)株式会社の監査を行う上の基本的なルールについて日本版404は内部統制の名前を使っている。会計知識の不足した頭でっかちなどっかの部門が,コンプライアンス,CSRなどとゴッチャにして,無駄な工数を課員に強いて残業させて形を作るのではなく,会計のルールに詳しい部門にチームを作り,隗より始めよという姿勢で初めて上手く行くのではないか("Does Anybody Really Know Whose Work It Is")?

6.会計士サイドの大いなる誤解(外部監査人の内部統制評価の実体を見抜け)

> 監査という仕事は難しい。他人のやったことについて評価するのですから、そもそもわからないことだらけです。実態に踏み込むには限界があるからです。それでも一定の評価を下さなくてはなりません。
> ところで、会計監査の場合、あくまでも会社側に会計数値作成責任が一義的にあることを明示させ、その数字についての監査を行うという立場を堅持しています。そして万が一、会社側の数値に間違いが発覚しても、監査上の手続きの問題と会社側の作成責任の懈怠という問題を分離しています。いわゆる2重責任の原則です。
> その場合、監査上の行うべき必要十分なる監査手続きを踏んだという証は「内部統制」という概念で説明されます。内部統制を評価した上で、個々の取引の実態調査をしているので、これは決して見落としではありません。一定の理論構成の基で行われた監査の過程で発見できなかったのだから、これはやむを得ないということです。つまり、内部統制という用語は、もともと監査用語で、しかも監査人の自己保身の理論構成をする上で使われてきた用語なのです。会計監査人は確かに従来から内部統制の評価を監査手続の中で行ってきました。しかし、それは実態に迫る血の通ったものには程遠く、外部から見た一定の枠の中で、監査という手続き上の中での理論構成上行っているにすぎません。
> 今回の日本版404で、内部統制という自分自身の評価に、従来から外部の監査人が行っている評価の手法をまねることは、あまりにもナンセンス。会計士側も自身の行動を慎むべきであると確信しています。「その会社の内部統制のプロはその会社にしかいない」のです。

☆ これも言われてみればそうだなあと思わざるを得ない。ところで中島氏が所属する新日本監査法人が提携しているのはE&Y(アーネスト&ヤング)なのだが,ここが米国でNECの監査を巡って厄介な事態になっているという報道が先週から市場を賑わし,NEC自体の株価にも相当は圧力となっているのは皮肉な気がする。米国会計基準でSECへの報告が大幅に遅れるから,9月中間決算の国内発表は国内基準でやりますとNECが言ったことについて,中島氏が立場上語ることはあり得ないだろうが,こんなところにもシステム仕事の難しさや米国基準(つまり本家SOX)を巡る混乱が伺える。どう考えても定着しているようには思えないのが,米国のSOX事情ではないだろうか?

7.内部統制評価の手続きへの疑問(「起こりうるエラー」を考える?)

> 日本版404の内部統制の評価の手法が混乱しています。開示につながる業務フローの中で、起こりうるエラーを事細かに全て拾い上げ、それを撲滅していくのが日本版404の内部統制構築の手法であると解釈しているむきもありますが、それは誤りでしょう。このような網羅的リスク撲滅アプローチは、コンプライアンス問題の解決や業務上の無駄の発見、従業員の不正着服の撲滅のためには、意義のある手法であると思われますが、こと今回の日本版404に関して言うならば、この手法は疑問です。そもそも投資家の判断を誤らすことがない程度に開示情報が担保されていることが今回の制度の趣旨であって、完璧なる100点を志向する制度ではありません。
> やはり、「リスクアプローチ」を駆使すべきです。そうでないとコストパフォーマンスが悪すぎます。完璧を求めることに要するコストはそのメリットをはるかに超えるものとなり、そもそも経済制度として成り立ちません。
> ところで、誤解しないでいただきたいが、「リスクアプローチ」とは上記のような詳細かつ網羅的にリスクを拾い上げていくようなリスク撲滅アプローチをいうのではありません。「リスクアプローチ」とは「リスクを拾い上げ、それを埋めていく手法」をいうのではなくて、まったく逆、「リスクのないところは何もせず、重要性の高いところだけを埋めるという手順」をいうのです。

☆ これと同じ光景を見たことがある。そうISO導入を巡る大混乱だ。奇しくもISOとこの内部統制でに共通するのが、「リスクアプローチ」である。日本人の悪いところは(半面非常に優れたところでもあるのだが),こうしたアプローチの時に最初にあるべき姿を結論として描き,そこに向けたタスクフォース的方法で全ての困難を突破して成果を得るという,「プロジェクトX」的手法しか正解が無いと勝手に決め付けることだ。

☆ こうした体育会系的根性主義がどれだけ非合理で,実情に合わないかどうしても理解できない御仁が多過ぎる。答えを言うのなら,演繹法でやるべきところを帰納法でやってはならないのである。「リスクアプローチ」は絶対の正解ではない。あくまでもリスクが予想される部分を限定してそこに重点をかけるから,それ以外の予期せぬリスクの可能性は常に内包している。それはむしろ一般的なリスクマネジメントの話であり,そういうところをゴッチャにすべきではないのだ。

8.定性的なものへの評価の限界は認識できているのか

> 次に、日本版404にはそもそも制度としての限界があるということは見逃してはいけません。定性的なものを評価することは非常に困難なことであり、かつそれを外部のものにさらに監査をさせるという仕組みは理論的には理解できますが、現実の実務の中では相当困難なものになるということです。
特に、外部の監査人は「これでは監査報告書は出せませんよ」というコメントをちらつかせながら、自己保身に走るので要求はきつくなる可能性が高いです。米国では現実のものとなり、404の崩壊が始まっているわけです。つまり、経済制度としてなじまないのです。開示の体制整備とそれを対象とする自己評価と外部監査という主張はごもっともですが、現実的な実務への反映は相当困難なものとなるでしょう。
> 子供の教育が重要であるからといって、親に「うちの子供はしっかり勉強しています」と宣言させて、外部のものにそれを監査させたところで、世の中がよくなるのでしょうか、意義があるのでしょうか。その制度に要する社会的コストはその社会が享受できるメリットをはるかに超えてしまうのではないでしょうか。

☆ この辺は勉強不足のマスコミや企業の経営者達にもしっかり認識してもらいたいと思う。このあたりの議論を見ていると例の「成果主義」なるものが人事の現場にもたらした混乱を思わずにいられない(今日はこればかりだ(^▽^;) )。

9.ドキュメンテーションとは責任解除のための証拠作りなのか
今回の日本版404は、その膨大なドキュメンテーションの作業が大変であるとよく言われます。そもそも、経営の屋台骨を脅かすほどにドキュメンテーションのコストをかけなくてはいけない制度というものが経済制度として成立していいわけがないという点を指摘しておきたいと思います。
> また、ドキュメンテーションの目的は説明責任の遂行といわれますが、結局それは自身の立証責任の確保であって、投資家保護というものとは結びつきません。また、ドキュメンテーションが整備されていないと監査ができないという理屈は一理ありますが、やはり監査人の見識が勝負の分かれ目になります。「ノンドキュメンテーション、ノンワーク」と主張する人がいますが果たしてそうでしょうか。確かに保身のための立証はできないという自己に不利に働きますが、保身ばかりを考えて遂行される経営や監査・・・ちょっと淋しい気がしてなりません。そういう世の中になったと言ってしまえばそれまでですが・・・。

☆ これもやはりISOを巡る混乱に似ていると思う。こうした混乱の原因となっているのは,それらのものがある日ある時どこか天の方から突然落ちてきた隕石に似ているからではないかと思う。突然の隕石がもたらした混乱に「とりあえず触らぬ神に祟りなし」だからサクサクと片付けて免罪符にしてしまえという流されモードに日本中が巻き込まれている。そこを衝いて不安ビジネスが花盛りという,どっかの占いのババアやスピリチュアルなオッサンが持てはやされているのにも似た気色と居心地の悪さを感じるのは,ひねくれ者で罰当たりなあたしだけだろうか?そんなあたしが言うのもなんだけど,免罪符の横行にルターは立ち上がったのだが,現代のルターがフーリガンもどきの反グローバル主義者だけということも淋しくないのかねえ?

10.果たして投資情報として本当に有用なのか大いに疑問

> 今回の日本版404の目的は投資家保護です。つまり、投資情報の信頼性向上です。ところで、そもそも投資家は投資情報という数字それ自身を判断材料にしているわけで、それを作り出す過程、つまり決算書作成までの裏事情に果たしてそれ程興味を持っているのでしょうか。

☆ あたしもそう思う。誰も,おそらく企業のアニュアルレポートを世界一読んでいるオマハのウォーレン・バフェットでさえも,そんなことは露ほどにも思わないだろう。そう言えばバフェットの投資方針は明確だ。「自分に分らないものは,買わない」。これで殆どの投資が済ませるのではないか。投機なら別だ。これは財務諸表は端から必要としない。そういう投資のあり方が投機なのだし。。。

> 「今期だけは経理のチーフが辞めてしまったために会社はてんてこ舞い、会計監査人との事前打ち合わせやコミュニケーションの強化により何とか決算を終わらせ、会計監査証明も無事付与された。」このような裏事情を投資家は本当に必要としているのでしょうか。結果的に数字が適正であれば、これでいいのではないでしょうか。その裏事情、「数字は適正であるが、実は体制は相当混乱している。監査の中で数字を修正したのがいくつかある。」というような情報が本当に投資家に必要なのでしょうか。

☆ 投資家でここまでの情報が必要な者など実際どこにもいないと思う。ただ,支配的株主であれば話は別だし,少数株主(前者以外の株主を指す)であっても自社との連結決算上,その会社に風評リスクが生じるのは困るという場面はあるだろう。ただそれは株主が経営にもタッチしていない場合だけであり,通常それは考えにくい(突然大株主に浮上したものは別だが)。そうやって考えると,一般株主(ごく小さな単位しか保有しない)にとっては,やはり必要なものとは思えない。

> 会社側と会計士の間で、来期からは今期の反省に基づいて、このように体制整備を進めていこうという話し合いが持たれ、お互いの協力の下に徐々に体制整備がなされていけばいい話ではないのかと思います。会社と会計士の関係とはそういうものです。これを癒着とか独立性違反とは決して言いません。

☆ ある意味正論だが,それを今言い切ってもいいのかな?やはりカネボウや西武=コクドについて反省すべき点は多々あるのではないのか。と監査法人には言いたい。いったい誰のせいで実務に無駄な工数をかけるこんな事態を招いたのだとあたしらが言えば嫌味に感じるのだろうか?

> 以上のように、今回導入されようとしている日本版404は多くの疑問や矛盾を内包している制度です。経営者は浮き足だつことなく、冷静にこの制度と向き合っていただきたいと思います。まさに、経営者の感覚と見識と戦略が問われる局面です。また、担当会計士にはぜひ議論をぶつけてみてください。一緒に前向きに意義のあるものを見出し、ともに歩んでいきたいと思います。

☆ これが結論。もちろん論旨はよく分るし,実務家としても分っていない経営層をどうやって説得するのか考えるだけで顔色を失いそうなんだが,こうした議論を監査法人の人が問題意識として提示しているところに,今の社会の健全な部分を感じるのも事実だ。多少嫌味を書いたところもあるが,本質的にはこうした議論の機械が増えることは大いに賛成したい。それこそが会社法チームの考える「開かれた企業社会」のあり方に沿った社会ではないかと思うから。(^∇^)

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コメント

私の拙文までご紹介いただいたようで
恐縮です^^;
今回は手抜き記事でしたのでまた改めて自分の視点から後日まとめてみようと思います。

> 会社側と会計士の間で、来期からは今期の反省に基づいて、このように体制整備を進めていこうという話し合いが持たれ、お互いの協力の下に徐々に体制整備がなされていけばいい話ではないのかと思います。会社と会計士の関係とはそういうものです。これを癒着とか独立性違反とは決して言いません。

この部分については私も言い過ぎだなと感じた部分でありまして、企業側と友好的な形で監査をすすめてきた古き良き日本の会計士の感覚が残っている部分だと思います。私も業界のものとしてその点が効率的な監査の実施にプラスに働いてきたことも承知していますが、世間ではそれを「癒着」として捉えるという認識がまだ薄いのだと思います。

投稿: inaken | 2006年10月30日 (月) 00時49分

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